--- 言葉の芽 vol.39 「 景勝の芽 」

 よく、景色が優れているところを「景勝地」というが、先日、そのうちの一つ、南紀白浜(和歌山県)の千畳ヶ浜の落書きがニュースになった。
 実はここ、僕が幼い頃、親父に連れて行ってもらっている。そのときには、ここが景勝地などとは思わず、「これのどこが、砂浜で出来てんの?めっちゃ堅いやん。こんなん岩浜やでぇ」と言っていた。親父はそんな僕をよそに、「ええのぅ、ここの景色わぁ。最高やのぅ」と何度も言っていた。

 時が経ち、大人になって単車で行ったり、友達とドライブがてら南紀まで行けば、なぜかこの景勝地に立ち寄っていた。
 景勝の意味などわからずに・・・・・・。

 景勝とは、その場所に立ったとき、その景色の圧倒的迫力に、ちっぽけな自分に気づかされたり、その景色のあまりの美しさに、我を忘れさせられたり、母なる大地が、創り上げた、その場所その場所の見事な作品に、人間など簡単にのみこんでしまうほど、自然の方がどれだけ勝(すぐ)れているかを、イヤというほど思い知らされる景色のことを言うのである。

 そんな景勝地になぜ親父は、幼い僕を連れて行ったのかというと、幼いころの感性で見たものは、大人のように景色を心情的に楽しむことは出来なくても、叙情的・情緒的に感じさせようとしてくれていたのだろう。
 そのおかげで、大人になってその場所へ行くと、僕自身が、幼いころの僕が、あっちこっち飛び跳ね、ちょこまかしていた姿が視える。
 これが僕の心に、景勝の芽となっている。

 これから紅葉シーズンに入っていくが、幼い子どもがいるファミリーは、ぜひとも連れて行ってあげてほしい。きっと、その子の心の中に、その景勝地の種が植わることだろう。
 その子が親になったとき、我が子を連れてドライブに出かける姿が目に浮かぶ。

 今、多くの大人が、景勝地には出かけたり立ち寄ったりはするが、その場所で景色に浸ったり、感動したり、驚嘆することなく、その日のスケジュールをこなす一つの場所として立ち寄ったり、その後の名物料理をより美味しく食べるための一つの場所として、ガイドの解説を聞いているようで聞いていない姿を並べ、ガイドのあとを歩かさせられている。
 これでは、景勝地へ行って景勝せず、である。
 景勝地に出かけ、ちゃんと景勝するためには、その日、その場所を見たい、触れたい、感じたいと思って、その場所のみを見に行くのである。
 つまり、その絶景や風景・景色そのものの中へ飛びこんでいくのである。もっといえば、その景勝地の景色を食べに行くのが良いだろう。
 だが、その思いで何度出かけても、その景色に逆にたべられたり、その迫力にのみこまれたりする。
 それこそがまさに、景勝地を景勝することになるのである。

 景勝地を景勝することは、大人になってのとても贅沢なものの一つだろう。
そして、景勝地を景勝することとは、決してその景勝地に、思い出だからといって落書きをすることではなく、自らの心の中に、その景勝地の方が、こちらの心に、美しき落書きをしていくのだと思う。その美しき落書きをされたとき、景勝の芽が植わるのである。

あぁ〜、この前のあの景色は最高やったのぅ・・・・・・。




ブックドクター・あきひろ