--- 言葉の芽 vol.40 「 言霊の芽 」

 ことだまは、漢字で書くと2種類ある。
 ひとつは「言霊」。もうひとつは「言魂」。
 言霊の方は、今は亡き人が生きていたとき、よく言っていた言葉を思いだして飛ばすとき。
 言魂の方は、今も生きているもの同士が魂と魂が震えるような言葉を飛ばし合い、朝まで語り合うようなもんである。

 そこで今回は、言霊に的をしぼってみたいと思う。

 平成18年10月6日、僕のおやじがあの世に還(かえ)っていった。還っていったということは、今は霊体になり、生きているときのおやじを僕が思い出して言うセリフはすべて言霊となる。ここに少しだがあげてみたい。

 「みんな仲よぉのぅ、家内安全で健康が何よりじゃ」

 「人生、笑う門には福来るや。どんなに苦しても、辛ろぅても、心の中で笑顔、笑顔ってとなえるもんやぞ。必ず、道がひらけるでなぁ」

 「人間の人生は、博打とようにとる。1つの判断で、自分しかわからん結果が必ずある。
ええかぁ、博打の博は、博識の博とおんなじや(笑)」

 「人のグチを云わず、人を恨まず、人をねたまず。
この3つをするだけで、人ははなれず、人を嘆かさず、人と喜び合えるなり、や。ええかぁ、アニキ(おやじは僕のことをこう呼ぶ)」

 「ええかぁ、ええ機会やでいうといたる。人生の宝もんは何か訓えといたる。
それはなぁ、親、兄弟いうんは血でつながっとるけど、心の絆でつながっとるツレや。つまり、命をあずけあえるような、ツレ。これ以上のもんは、人の人生(みち)にない。これはワシが言いきっといたる。
 つまり、神さんが、男でこの世におまえを送ってくれたんは、一生かかって、その宝(ツレ)さがしをせぇーちゅうこっちゃ。わかったか、このボケぇー。つまらんケンカばっかしやがって。ケンカする相手をボコボコにするだけがケンカやないどぉー。おまえがしばいた中に、その宝もんがあるかもわからんねん。その宝もんを壊してきてどないすんじゃあ、ボケぇー。」

 「おまえがのぅ、まさか、ワシが欲しかった女の子を孫として授けてくれるとはのぅ。あのおまえが、おやじになるんもうれしいけど、初孫が女の子っちゅうのは、たまらんぅ。おいアニキ、今、ワシ死んでもええぞ(笑)」

 「気合い言うんは、体に入れるんとちゃうどぉー。肝っ玉にいれるんじゃ。」

 「やっはあがる(成功する)ヤツはええ瞳(め)しとる。ぜったい瞳はウソつけん。なんせ、そいつの心がうつるからのぅ。」

 「あれがおまえがみつけてきた宝(しんちゃん)もんか。ええ宝もん見つけてきたのぅ。」

 「アニキ、ワシはほんまにしあわせやった。ええ人生やった。あと、たのむぞ、ほんまに。
あっちでの魔はすべてワシにまかせとけ。おまえの厄もな。
ああ、ええ人生やった・・・。
ほんまに・・・。」

などなど。
 どれも僕の耳にタコができるほど、言っていた言霊ばかりである。
 生きているときに、言魂を飛ばし、何度も僕の魂(こころ)に、さしていった言葉が、今、霊体となって、おやじはこの世に生きていないのに、ちゃんと言霊として生きているとは、まったくおやじにはやられてしまう。

 みなさんも、親、子ども、友達、お世話になっている人、出逢ったその日に意気投合した人などなど、生きているときに生きた言葉の言魂をさしておくと、自分がいつ逝っても、言魂がささった側の人たちが、その人を偲んで語り合ったとき、その場のすべての人たちが、言霊を飛ばし合うことになる。そのときさぁ、生きている者のすべての魂(こころ)にあった言葉が魂(こころ)から霊(たね)にかわり、語り合うことで芽がふくのは。それがまさに言霊の芽なのさ。

 その芽が芽吹いた語り合いは、だれもの言霊が生き生きし、だれもが活き活きするのさ。

 おやじぃ〜、良かったのぅ、ええ人生で。
 俺も、おやじみたいに、最期に「ええ人生やった。」と言い切れる言霊をはけるよう、がんばるでの。
 それまで、おじいちゃんと、そっちでしゃべっとれ。ほなな。




ブックドクター・あきひろ