--- 言葉の芽 Vol.41 「赤誠の芽」

 まだ、何が良くて何が悪いのか分別もつかない幼い子が、そう、イメージ的には2才後半から3才前半ぐらいだろうか、ある角度からみれば、まだ赤ちゃんのころのほっぺたのふくらみを幾分か残しているような時期の子がみせる“まごころ”のことを赤誠(せきせい)という。

 たとえば、家に遊びにきた母方のおばさんが帰り際に立ちあがった瞬間、ハンカチを落としたとする。
 そばにいた甥っ子だけが気がつき、玄関で、「また姉ちゃん寄るからな(笑)」などといいながらクツをはこうとしているときに、とことこ歩いてきた甥っ子のぷくぷくの手にハンカチがにぎられている。おばさんがそれを見て、一応自分のポケットを確認し、無いことがわかり、「あらぁ〜、私のハンカチ、わざわざ、拾ってもってきてくれたの?ありがとう」と言った場合、この甥っ子は、「おばさんがハンカチを落としたから届けてあげよう」とか「おばさんの大事なハンカチかもしれないから、今ならまだ間に合う。持ってってあげよう。」とかの思考が働いているとは、とても想像しにくい。
 ただ落としたから拾った。そして落とした人にただハンカチをにぎって寄っていったという行動に、大人の思考が手伝い、「この子がハンカチを落としたことにさっと気がついて、わざわざ持ってきてくれたんだ。なんて優しい子なんだろう」って思ったとしたら、それはそのおばさんのまごころに関する感覚に、甥っ子の行動がふれ、実際は、おばさんが思ったのである。
 この甥っ子の純な行動で、大人の真心を触発された瞬間(とき)、その大人の心が赤誠の状態になったときでもあるのである。

 母が我が子に苦労させられながらも、成人となり、人の親となり、孫の顔もみれた晩年ころ、床にふすことになった。そのとき我が子は、それまで忙しい忙しいと言ってなかなかゆっくり話すこともなかったのに、会社に事情を説明し、毎日、夕方6時には会社帰りに寄ってくれ、体を床ずれしないようにと拭いてくれたり、色々世話をしてくれた。母は本当に我が子に感謝した。我が子の方は、昔、おかんには苦労かけた罪ほろぼしだったかもしれない。今まで忙しい忙しいと言ってロクすっぽ親孝行していなかったことを自分でも責めたかもしれない。
 いずれにせよ、ただ何のいつわりもなく、母に本当に、早く良くなって、また元気になってほしいと願っての行動ならば、これまさに、
 “赤誠を尽くす”
 という。

 これに近い経験を、僕は今、法事のたびに味わっている。
 仲間の、伸ちゃん、さとかつ、タイチは、朝早くから夜中まで、次から次へ仕事が発生し、さばいていてさばいても、さばききれない仕事があるというのに、折り合いをつけ、四十九日までの初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日、つまり、四十九日までをすべて皆勤で手を合わせに来てくれたのだ。おやじのために、これまた赤誠を尽くしてくれた。
 僕はと言えば、おやじが仏様の元にたどりつく大事な法事だというのに、二度、法事に出られていない。つまり、赤誠を尽くせていないのだ。はずかしいことである。

 ある日、子どもに絵本を読ませてもらい、会場をあとにしようと、2,3歩歩いたとき、いつもハダシの僕の足に激痛がはしった。運が悪いことに画鋲を2つもふんでしまった。
 「痛!」とは思ったが、声には出さず、すぐ画鋲をとり、主催者の人のあとをおった。話を終えて玄関に行って、主催者の人に別れを告げながら、僕の履物をとろうとしたときだった。画鋲をふんだ右足の履物の上に、バンドエイドが2枚おいてあった。周りには誰もいない。車に乗って門を出ようと一旦停止をして、右左右の確認をしたとき、電柱に さっと隠れた女の子がいた。
 僕は窓をあけ、「ありがとなぁ」と言ったら、「ウン」ってうなずいてくれた。あれも、こんな僕にくれた、女の子からの赤誠だろう。
 僕も女の子も、なぜか顔が照れて赤くなった。
 ひょっとして、赤誠を尽くす方も尽くされた方も、あまりにも純なまごころのやりとりのせいで、赤面するほどの誠を尽くすことを、“赤誠”というのかもしれないと思った。
 そんな赤誠を尽くされた方は、必ず、赤誠の芽をいただくことになる。

 ただただ、
 仲間に、女の子に、ありがたや、ありがたや。




ブックドクター・あきひろ