--- 言葉の芽 Vol.42 「慣れの芽」

 少しずつ経験を積んで、最初のように 緊張したり 失敗したり あがったりすることがだんだん無くなっていく様のことを、慣れるという。
 ちなみに親しみの表れをくみする方は馴れるである。今回は慣れるに焦点をあてたい。

 人前で話すことが苦手な人。すぐ顔が真っ赤になってあがってしまう人。前に立って人波を前にした瞬間、極度の緊張に体がまったく動かなくなってしまう人など、いろんな人がいるだろうが、そんな人に限って、人生において、人前で話す機会が幾度となくやってきたり、逃げようにも逃げられない状況が訪れたりする。

 頭の中が真っ白になりながらも、なんとか限られた時間を終え、自分では何が何だかわからないうちに終わっていたという初めての体験から、また人前に立たなければならないことがやってきてしまった。もう、あんなはずかしいことは2度とやりたくないと思っていたのにどうして?こうなっちゃうの、といったところだろう。でもやらなければならない。そして、また、なんとかやりとげた。
 あれから5年。今は、前に立っても多少緊張するけど、会場のすみずみまで見られるようになったし、時おり冗談もまじえられるようにもなった。初めてのときを思いかえすと、まさか自分が5年後も、こうして人前に立って話をしているなんて、ほんとに思いもしなかった。これも慣れねぇなーんてことになる。
  そう、これこそ慣れである。

 慣れの字のつくりをみると、心臓がある左側に心があり、その心がたおれないように右側から貫くという字がしっかりサポートして、慣れるという字が成り立っている。これと同じように心臓がドキドキしていても、なんとかこれだけは伝えなければという意志を貫くことが、少しずつ良き経験となり、慣れが生まれるのである。

 だから逆に、意志というサポートするものがなかったり、何とかしなければならないという責任感のようなサポートしてくれるものがないと、何度、人前に立とうが、いつまでたっても慣れが生まれず、もうこりごりとなって、せっかくのチャンスに怖じ気(おじけ)が生まれ、やめてしまうのである。

 子どもが小さいうちに、まだ、はずかしいとか責任感が宿る前ぐらいから、家族の前で歌を歌ったり、いろんなことを体験させてあげられたなら、それはすべて慣れの種となる。
 慣れの種さえあれば、「あっ、小さい頃1度やったことがあるけど、やるだけやってみよう」という気になりやすい。

 1度が2度、2度が3度と経験を重ねていくことで芽をふきはじめる。この慣れの芽の正体は、ツボの心得のようなものだが、ツボを心得ると、履き慣れたクツだとちょっとつまづいただけでは転ばないといった様のように、大失敗をする怖じ気をいだかなくなり、回数をこなすたびに慣れ、慣れをすすめるとしまいには、味がでだすのである。

 その人しかだせない味が・・・・・・。




ブックドクター・あきひろ