--- 言葉の芽 Vol.43 「手ごたえの芽」

 手ごたえは、漢字で書くと『手答え』・『手応え』とも書かれる。

 僕のイメージとして『手答え』の方は、手そのものに直接感触があるもの。例えば、バットにボールが当たった瞬間、これはホームランの手答えがあったとか、釣りでこの手答えは、大物の感じがするとか、カンナで木をけずるとかがそれにあたる。
  そして、『手応え』の方は、心の手でつかめたときの感じをさすもの。つまり、直接、手に感触があるわけではないのに、つかめたと感じるもの。例えば、交渉に出かけ、あの部長の表情から手応えは十分にあったと思うとか、お母さんがあの声で「考えとくわぁ」っていうときは、手応えありとみて、まずまちがいないねとか、何か働きかけたときに相手の反応をみて、こっちが「よし!いける」と感じるものがそれにあたる。

 このどちらの手ごたえを感じるにも、その道の経験と、その人が何を心に捉えてきたのかの蓄積がないと、確かなものとならない。
  別に正確さを求めるものではないが、その手ごたえが確かなものであったかぐらいは、結果や成果がでるまでに感じられれば、次なる働きかけに、集中して向かうことができる。


 僕は子どものころから武道を習っているおかげで、急所に拳を当てるとき、どれぐらいの力で、どれぐらいの手ごたえがあれば、相手は、痛がったり、苦しんだりするのか学んだ。技の力加減も相手の体が大きかろうが、柔らかろうが、この角度でこのぐらいの力とスピードであれば、どういう向きでコケて、どうイタがるのか、初手のにぎり具合の手ごたえで確かにわかる。

 この感覚(手ごたえ)は、おやじにイカダづりに連れていってもらったとき、イカダづりは初めてなのに応用がきくんだということも学んだ。
 イカダからサオを出してボラをねらうのだが、ハリにエサをつけて、ボラがいるタナ(水中でボラが生息している深さ)までオモリがさがるまでに、そのタナまでに生息するアイナメなどの他の魚にエサをくわれると、一応、手にアタリがきた感触がする。僕は、アタリがくればすべてボラがあがると思って、急いでリールを巻きあげる。ところがつりあげたのは、ボラではなく別のさかなばかり。おやじは、ボラばかり。不思議だったので、
 「なんでおやじは、ボラばっかりつれんの?」
 ってきいた。そしたらおやじが、
 「ボラは、ボラの手ごたえがあるからのぅ」
 と言ったので、
 「ボラの手ごたえってどんなん?」
  ときくと、
 「それはなぁ、手にグググッときてガツンっていう感じや。お前のさっきのアイナメはグゥーッって感じだけで、ガツンとはこやんやろう」
 と言った。確かに、グゥーッって感じだけやったと思った。しかけはおやじと同じ。サオはおやじが高くていい方のサオを僕にかしてくれてたから、つり方のどこがおやじと違うのか思案していたら、おやじが、
 「おまえ、拳法なろてんのやろ?拳法のとき、何でもかんでも、ムリやり技かけやんやろう。そやのにおまえは、ちょっとアタリがきただけですぐサオをあげるから、小さいのがつれんねん。ボラのアタリがくるまでまっとけ」
  と言ってくれた。しばらくまっていると、


 『グゥーッ、ググッ、・・・・・・ガツン!!』


 きたぁー!と思ってアタリをあわせて、リールをまいたら、ボラがあがってきた。
 めっちゃうれしかった。
 それからは手ごたえの前に、今日は大漁につれそうな手ごたえを、たった1ぴきのボラをつりあげただけでわかるようになった。

 手ごたえを感じるためには、手ごたえある親の一言が、子どもの心の手を芽ばえさせると思う。




ブックドクター・あきひろ