--- 言葉の芽 Vol.46 「切切の芽」

 切切に手を合わせた、などのように、切切とは、心のこもった在りようを言う。

 昔の文献を読んでいると、「切切と働くこと也」、と書いて、「せっせと働くこと也」と読んでいたようだ。つまり、心をこめて働かなければならない、ということである。

 僕なら、ブックドクター業に邁進する1つの行いは、いついかなるときも、切切と絵本を読ませていただかなくてはならないことだろう。

 親なら、切切と我が子のために、子育てし、おじいちゃん・おばあちゃんが床に伏したなら切切と介護し、先生なら、切切と授業を行うということだろう。

 心のこもった行動は、周りの人たちに多少の誤解があろうとも、必ず、その意思が伝わっていく。それは、多くの歴史上の人物たちが示すところである。

 ガキのころの話だ。
 僕の昔の家には、小さな庭があった。5月ともなると芝の草が勢いづき、2,3日ですごくのびた。そうすると、おやじが大好きな釣りに出かけず、草刈りガマを倉庫から持ちだしてきて、ランニングにバミューダパンツで、シャキシャキと草を刈っていた。その姿は、まさに切切と庭をキレイにしていたものだ。
 その横で、ソーダ味のアイスキャンディをペロペロなめながら、僕は邪魔ばかりしていた。
 すべて刈り終えると、ハイライトのたばこに火をつけ、庭を見ながらうまそうに一服していた。
 おやじは、何をしても切切と働くのがうまかったと思う。

 僕は、ぜんぜんダメ。あの背中姿が脳裏にこびりついているというのに、今だに切切とは働けない。いい加減な動きはうまいのに(笑)
 早く、切切な動きを身につけたいものだ。

 我が子に、切切な子育てができたとしたら、自然に、思いやりのある子に育つような気がする。
 だって、心のこもった言葉で誉めたり、心のこもった背中姿を見るわけでしょ。当然、子どもは、感受性豊かだから、その影響を多分に受けて、学年でもグンを抜いて思いやりのある子に育つわなぁ。
 そういう子は、自分自身に対しても思いやりのある解釈がのちにできるようになるから親を心配させるようなことはない。
 これこそ切切の芽である。
 それが世の中に出たとき、どれだけの武器となるか。そんな強い切切の芽を持っていれば、どんな世の中になっていようが、みんなに慕われると思う。

 僕はどこでその芽がちぎれてしまったんだろう。
 たぶん、ワルさばっかりしてたから、良からぬムシにくわれたんだろうなぁ(笑)
 まぁ、絵本の世界には、その1冊1冊に、主人公の切切さがあり、絵描きさんの切切さが封じ込められているから、それを切切と読ませてもらえば、僕の心にも、もう1度、切切の芽が芽吹いてくれるかもしれない。

 でも、こんな僕でも、日本中の子どもたちに読あそびさせてもらうと、子どもたちから切切と訴えられることがあるのさ。

 「また、絵本、読みにきてぇー。ぜったいやでぇー。」
 と。このおっさんには僕らの切切の芽の苗木を言葉の中に織り込んで分けたらんと、僕らよりワルガキのままやと・・・・・・(笑)

 だからここで、ブックドクターあきひろから、日本中の子どもたちに切切とお願いがあります。

 『これからも、このよんじゅうにちゃいの、ワルガキおっさんを、どうか、ひとつ、おてやわらかに、よろしくお願いします』

  と。

 うりゃーあ!!!
 うりゃーあ!!!
 うりゃーあ!!!

 




ブックドクター・あきひろ