--- 言葉の芽 Vol.47 「世知の芽」

 世知とは、世智とも書くが、世の中を要領良く考えながら渡っていく知恵のことをいう。

 今、悲しいかな、要領が悪い人が、要領が良い人をねたんだり、グチったりする世の中になった。

 本来、要領が良い人は、世知力があるため、要領が悪い人から、グチを言われない要領も兼ね備えていたのだが、特定の人に限られた要領の良さになったため、要領の悪い人から見れば、世が世なら、自分があのポストにおさまるはずだったと思わせてしまうのだろう。

 また、その要領の良さは、小学校低学年ごろのクラスの中で養われることが多いため、すでに、小学校1年生で、その要領の良さは、すぐ社会に出てもトップクラスの質を感じさせる子どももいる。
  ということは、その子どもを良く思わない子どもは、その頃から、ねたみの芽を心に養うことになり、社会に出たときには、自らも認める要領の悪さを、何をやっても痛感することになり、子どものころから繰り返しやってきたグチを言い合える仲間を増やし、要領の良いヤツをそのポジションから蹴落とそうとする。

 だが、うまく蹴落とせない。

 なぜなら、要領が悪いやつが頭を使って策を練ったとしても、策自体の要領が悪く、練り方も要領が悪く、実行にうつしたときの要領も悪いため、うまくいくはずがないのだ。
そのことに気がつかないうちは、スジ金入りの要領の悪さを地でいくことになる。

 では、どうすれば世知を身につけていく日々を重ねることができるかというと、その要領の良い人と友達になるのが一番良い。

 そういうと、要領の悪い人は、すぐ、今さら、アイツと友達になんかなれるか!と自分で自分の出会いの範囲を狭めてきた要領の悪さの中から来るプライドか意地のようなものが邪魔をすることだろう。

 ここが、一生グチを言い続けて生きていくか、要領のよさの何たるかを知り、人を少しずつ認めたり、許したり、グチやねたみを言い続ける生活から解放されるかの岐路となる。

 別に、その人とすぐ友達にならなくても、よその会社や、知人の知人で、要領が良い人がいればその人と少しずつ会って、いずれ友達になればいい。

 要領の良い人の多くは、"何につけてもこだわることがあまりない"という点が共通する。
わかりやすく言うと、柔軟を地でいっているのだ。
  つまり、要領の悪い人は、自分が自分で思ったことに"それなりのこだわり"が生じるため硬化する。グチやねたみを持てば持つほど硬化する。そのため、人の失敗や不幸を聞いたとき笑うようになり、人の成功や感動を聞けば、さげすむようになる。

 ほんとに、哀しいねぇ。

 要領の良い人は、ガキのころから、大人になったら要領の良い大人になろうと思って、要領よくなったわけではなく、気がついたら要領の良い人と言われるようになっていたことが多く、本人はいたって要領の良さの自覚は薄く、友達から「いい加減なんだから」と言われる場面も少なくないのだ。
  それなのに、要領が良い人といわれ続けるのにはわけがある。
  そのわけとは、要領の悪い人が、その人を要領良いヤツと決めつけるほどの"こだわり"が、その要領の良い人をうきぼりにし続けることになっているのである。

 世知を身につける芽は、"こだわり"を捨てることにこだわればいいのである。

 




ブックドクター・あきひろ