--- 言葉の芽 Vol.50 「勤楽の芽」

 世界の企業家たちからは、日本は勤勉国家と思われている。

 勤勉とは、仕事や勉強に勤(つと)め励んだり、勤務しながら日々学ぶことにも勉(つと)めている。

 勤勉な人のイメージは一言で言うとマジメ。
 勤勉なことは良いこととなっている。

 日本のサラリーマンは24時間タタカエルほど、もくもくと働く(笑)
 多くの場合、家庭のお父さん。
 お父さんは、会社でも勤勉。じゃあ家では?
 恐ろしい数で減ることだろう(笑)

 でも、この勤勉さが思わぬ事態を生むようになった。
 勤勉に働いているだけでは会社が評価しなくなった。勤勉に働いていたのにリストラされたり、勤勉に働いていたのに髪の毛を茶に染めた若い社員が先に出世したり、勤勉に働いてきたおかげの人脈があっけないほど簡単に崩壊し、誰を信じていいのかわからなくなったりして、ノイローゼや心の病になってしまう人が少なくなくなってしまった。
 はたまた、勤勉な人が突然犯罪を犯したり、会社では勤勉だった人が家に帰ったとたん、妻や子どもに暴力をふるうお父さんにかわったり、逆に、そんな勤勉なお父さんの子どもほど社会に衝撃を与える事件を犯したり。今、勤勉なことは、1つの仮面として利用されるようになってしまった。
 そのため、その勤勉という仮面をかぶり続けることに堪えかねた人は、自らの命をも絶ってしまうということが日々どこかで起こるようにもなっている。

 そこで僕は、造語を生みたいと思う。

 勤勉な気持ちを少しスライドさせ、遊びや趣味などで『楽しいなぁ』と思えることに勤勉になる。子どものころ楽しかったことを大人になってもう1度、勤勉にやってみる。
 それを勤(つと)めて楽しくと書いて“勤楽(きんがく)”と読む。

 勤勉な人は、職場でしかそのまじめな能力を生かしていない場合が多いので、その能力を自分の遊びに活かしたり、家族に活かしたり、友達に活かしたり、町内で活かすように勤楽すればいいと思う。

 元々勤勉な人はいない。社会人になるまでに家庭や教室、友達関係などから強いられたりする環境から勤勉な人ができあがる。であれば、1度できあがった勤勉さを応用して楽しさや愉しさの幅を増やせば、かなり魅力あふれる勤楽な人ができあがる。

 本来、勤めるとは、仏語の勤行(ごんぎょう)からきている。これは僧が目を覚ましたら仏前で経をあげ、念仏を唱え、礼拝し、心をこめて焼香する、僧としての当たり前の1日を、陽々(※)と行うことを意味する。明るく楽しく陽々と当たり前の勤めをするが、1日として同じ勤めが無いことを日々学ぶことを言うのである。
  それは、子どもが毎日、当たり前のように遊びにいくことで、遊びからたくさんのことを学んだり身につけることは、1日として同じ感触がないことにたとえられ、それを童勤(どうごん)という。

 これからは、勤勉なことは良いことだ、という一辺倒ではなく、勤勉が身についたら次に“勤楽”はもっと良いことだと二辺目を用意してあげることで倒れないようにしてあげたいものだ。

 勤勉な人は、楽しむことにも陽々たれ。
 さすれば勤楽の芽、陽々となる

 (※)陽々=ありのまま振舞うことを得意とすること。 ちなみに揚々は、意気揚々のように、心を遣って得意となるさまをさす。  




ブックドクター・あきひろ