--- 言葉の芽 Vol.52 「「和」の芽」

 「なごやか」と読むことができる「和」。
和やかで連想する人の様子は、1人なら、和やかな表情だし、複数の場合なら、みんなが和やかな雰囲気で食事をしているところなんかがいいと思う。

 そうは言っても和やかさを自分が身につけるには、そうそう身につくわけではない。
大人なら、いつもイライラしていた人が急に和やかになたなぁと感じた場合、大きな事故に出遭って命からがら何とか助かったんだって、というようなことがあったりする。
子どもなら、いつも夫婦ゲンカばかりしていた家の子が、祖父が亡くなって以来、夫婦ゲンカがぴたっと止まり、それと同時期ぐらいから、みんなとうまく和むようになったりする。

 「和」の漢字のつくりは、「口」が右側にある。「味」「唯」「唄」「唱」「喋」の漢字は「口」が左側にある。
 「口」が右側にある意味合いは何をさすかというと、心の窓口が開いている、という表現がピッタリだと思う。気持ち1つで、すぐ開く「口」をさす。
 心の窓口が閉じていると、相手の言魂が入ってこなかったり、認めてあげたくてもなかなか認められなかったり、先の夫婦ゲンカの例で言えば、祖父の死により、ケンカばかりしていた夫婦が、これでは祖父がうかばれないよなぁと和解すれば、周りの家族の心の窓口もだんだん開くことになり、子どもの窓口も開いていったことになる。

 それまでは、お父さんの怒鳴り声や、お母さんのキンキン声を聞きたくないので、いつの間にか心の耳も、心の窓を閉めることにより、聞かないようにしていったのであろう。

 “和やかなれば、そこに笑顔の華が咲く。”

 だれの残した言葉かわからないけれど、いい格言だと思う。

 僕が子どものころ、おじいちゃんの友達に万屋さんというのがいて、この人は小学校の前で駄菓子を売ったり文房具を売ったりしているので、小学校に通う子どもは、みんなこのおじさんを知っていて、けっこう子どもたちから人気があった。
 でも、大人たちからは、ガンコ者でとっつきにくい人だと思われていたのだが、おじいちゃんと話しているときはとても和やかで、しょっちゅう、自分が近所の親たちから悪口を言われることを持ち出して、おじいちゃんと笑い合っていた。
 ある日、万屋さんが帰った後に僕がおじいちゃんに聞いた。

 「おじいちゃん、万屋さん、なんでここらへんの大人にきらわれてんのに、おじいちゃんはきらわへんの?」

 「なんできらわなあかんのじゃ。あいつと喋っとると、ええ和みがある。」

 「なごみ?ってなにぃ」

 「なごみか。和み言うのは、平和の『和』と漢字で書くんじゃが、あいつは、人の言うことが解らんヤツじゃない。むしろあいつは、ここらへんの大人の気持ちを一人一人よう解っとる。解っとらんのはここらの大人の方じゃ。でも、あいつはそんなことは気にしとらん。そこに和みの正体がある。
 つまり、ここらへんのヤツはあいつをガンコ者ときめつけて、自分たちの意見だけを通そうとしとる。あいつは違う。あいつは自分の意見を通してもいいし通らんでもええから、『みんなで力を合わせて筋だけは通していこう』と言うてるんや。
 これは、同じ平和でも『閉和』の方や。
 ほんまの和みはみんな、まず、直で膝を交えて腹わって話し合おうとするとこから始まる。
 和みはどっちにも、損得勘定が何もない話をしたとき、
 “話(わ)が和(わ)を呼ぶ”もんじゃ。
 それは、あいつの方が、筋が通っとる。
 この町内の将来見て、みんなのためになることをしようとしとるからなぁ。」

 子どもが幼いうちに、家の中でくだらない話でも、家族みんなでしていれば、それすなわち「和」の芽となるのさ。

 




ブックドクター・あきひろ