--- 言葉の芽 Vol.53 「発噴の芽」

「発憤」とは、いきどおりを発することであり、精神的に、自分が何かしたいしたいと思っているのにできずにいる固定化に憤りを感じて、意を決して発せようとする様をいう。
また、「発奮」と書く場合は、固定化から、自ら奪い立ち、発していこうとする様に、より力点をおいたイメージになる。
それから、誤解の無いように言っておいた方がいいかと思うのは、発散。
「発散」とは、あるモノを内から外へ散らす様、または、散らしたり散らかす意をいう。
だから発憤と発散とでは意味や解釈が違うのである。

だが、多くの人がだいたい同じような意味だろ、と思ってしまっている。
なぜそうなったかというと、現代社会の細分化・超高効率化・責任分担化などにより、大人はストレス(精神面)をかかえるようになり、ストレス発散なる言葉が日常で使われるようになった。そのため発憤という精神的意味合いと重なるイメージができあがり、発憤も発散もよく似た意味のように思われるようになった。
しかし、よく聞き分けてみてほしい。
ストレス発散とは耳にするが、ストレス発憤とは聞かないはずである。言葉にするときに、無意識のうちに、ちゃんと言い分けているのである。(笑)

さて、発憤に話を戻す。
発憤は、うっ憤とも意味合いを大きく分ける。うっ憤も精神的な言葉であるが、その意味としては、心に積もっている怒りのようなもの、うらみのようなもの、不満のようなもの、重った嫌な思い、などに重きをおく。つまり、自分以外の人からの何らかの理由で精神的に作用があるときに用いられる。ところが発憤の場合は、自分自身で自分に負荷をかけてきたところから自分自身が奮起して精神的に発していかねばならない作用として用いられる。

この発憤を極力わかりやすく文にすると、
「今回ばかりは、もう、誰も助けてくれねぇよなぁ。俺の単純な見落としからきたミスだもんなぁ。思えばガキのころから、俺はいつも最後は誰かに助けてもらってばかりだったもんなぁ。そんな自分が自分でも何度情けねぇとおもったか、わかりゃしねぇ。もう嫌だ。よーし、いっちょう結果を恐れず、やってみるか」
ってな感じ。例文が下手で申し訳ない。

この“よーし”と自らに声をかける瞬間が、発憤だったり発奮だったりする。

子どもが積み木をどれだけ高く積めるか、1つずつ積み上げていく。
途中で倒れる。
ガシャーン
また積み上げていく。
また倒れる。
すぐまた積み始める。このとき、子どもの心の土壌に種が入る。
とうとう頭にきてグズる。
その日は頭にきてるから、積み木は出しっぱなし。
でも翌日か、2・3日後、また積み始める。これで種から芽が発動する。
とにかく自分が納得する高さまで積み上げたいのだ。

ここで注意したいのが、これを見ていたそばの大人が、「この子は根気がある」とか「あきらめず何度もチャレンジする子だ」などの捉え方をせずに、また、出しっぱなしでも「散らかしっぱなしじゃない。
ちゃんと片付けなさい」などと叱らないでおいてあげてほしいということ。 子どもは、なぜ自分の積み木が積みあがらないのかの憤りを、自分自身に感じているのだ。

いや、ちょっと違うなぁ
憤りを幼いがゆえに味わってしまう感じに近いんだろうなぁ。
この感じをこの時期にしっかり味わっておくと、人生において、いつでも自由自在に発憤興起できるだろう。
こんな強みはないね。

 

※発憤興起 …… 精神をふるい起こして励むこと。
発憤興起を一念発起と解釈しないように。一念発起とは、意を決して成し遂げることを言う。決意の意が強い感じ。ちなみに一大発起や一代発起とは言わないからね(笑)

 




ブックドクター・あきひろ