一日一日、寒くなっていきますね。夕方散歩をしていると、ヒーンとした冷たい空気を肌に感じます。この前まで、どんぐりが、ポトポト音をたてて落ちてきたのに、今は一つも落ちてきません。私は、公園のスダジイを拾いながら(なぜ、拾うのかって?それはしいのみだんごを作るためデス)、つくづくふしぎに思いました。なぜ、どんぐりには、落下の時期がわかるんだろう・・って。
 町のハナミズキやけやき、さくらも、それぞれの葉をそれぞれの色に染めています。一体、誰(だれ)が変色のゴーサインを出すのでしょう。これまたふしぎ。
 私は、季節の変わり目になると、こんなふうに、身近な自然たちの営(いとな)みにふしぎを感じてしまうことがよくあります。
 ふしぎと言えば、こんなことがありました。私の家の隣(となり)に、金沢(かなざわ)さんというお宅があります。40年来のつきあいで、子ども同士の年齢(ねんれい)が近かったため、とても親しくしてきました。
 そのお宅が、10年ほど前に建替(たてか)え工事をすることになりました。おじさんは、庭仕事が大好きな方で、草木の手入れをいつもじょうずにしていました。でも、建替え工事に伴(ともな)って、庭にガレージを作ることになり、そこにある柿の木を1本切らなければならなくなりました。
その柿の木は、30年間一度も実をつけたことがありませんでした。それが、なんと!柿の木最後(さいご)の秋に、初めて実をつけたのです。30年目で、初めて、小さな実をたくさんつけたのです。
 おばさんが、菓子箱(かしばこ)に柿の実をいくつか入れて、私たちにもおすそ分けしてくれました。おばさんは、柿の実を渡(わた)しながら、小さな声で、こう言いました。
「どうもね、聞かれちゃったらしいのよ・・」
 つまり、「柿の木に、もうすぐ切るということを聞かれてしまったらしい。だから、最後にがんばって、実をならしたにちがいない」と、おばさんは言いたかったのです。

 ふしぎ!柿の木は30年間、一度も実をつけなかったのに、なぜ、切られるという時になって、初めて実をつけたのでしょう。おばさんが言うとおり、やっぱり、柿の木は、自分の命(いのち)がもう少ししかないことを知って、柿らしく散(ち)りたいと思ったのかな。柿にも意志(いし)があるっていうこと?おばさんたちの話が聞こえたっていうこと?ふしぎだなあ。
 その柿の実は、お世辞(せじ)にもおいしそうにみえませんでした。でも、食べてみたら、とっても、おいしかった!この甘さは、よく手入れをしてくれたおじさんとおばさんへの、柿の木からの30年分の感謝(かんしゃ)の味だったのかもしれません。なんて、義理堅(ぎりがた)い柿でしょう。
 これは、もう10年前の話ですが、それ以来、私の心のなかには一つ後悔(こうかい)が残りました。それは、この柿の種を庭にまかなかったことです。家の庭には、びわの木が1本あります。弟が小学校の給食で食べたビワの種を、庭にうめたのですが、30年かけて、今では立派(りっぱ)なビワの木に成長しています。桃栗(ももくり)三年、柿八年といいますから、あのときまいていれば、ひょっとしたら義理堅い柿の木が育って、小さな実をつけていたかもしれません。目の前にある1本の木の命をつなげていくことが、緑を守っていくはじめの一歩でもあるのに・・。はぁ?。
 その後悔から解放(かいほう)されるために、私は3年前この隣の柿の木のためにお話を書きました。「ざぼんじいさんのかきのき」という話です。ここで、その最後のフレーズを、種をまかなかった反省(はんせい)をこめて隣の柿の木にささげたいと思います。
'かなざわさんち(本文:ざぼんじいさん)のかきのたね。ぐんぐん、ぐんぐん、おおきくなあれ。あまーいかきのみ、いっぱいなあれ'
 自然にはふしぎがいっぱいです。みなさんも、ふしぎな話があったら、教えてください。
私は、この柿の木のことがあってから、木の幹(みき)をなぜたり、話しかけたりするようになりました。きっと、聞こえてる。きっと、感じてる。きっと、通じてる。 そんなふうに思うから・・。