森の世紀が始まりました (第13回)
── どうして水は命の源なの (10) ──

日本樹木種子研究所所長・東北大学名誉教授  江刺洋司

生き物が太陽エネルギーを貯蔵したことになる有機物に依存して生きる(従属栄養)には、無気(嫌気的)呼吸でATPを生産するか、有気(酸素)呼吸でATPを生産するか、多くの生き物はどちらかの過程を選ばねばなりませんが、酵母のように状況に応じてどちらをも使えるものもありました。このような選択肢を持つ生き物は、特殊な微生物に限られ、条件的嫌気性生物とか通性嫌気性生物と言われています。前回に紹介した腸の運動でお腹の中で有機物の不完全酸化で臭いガスが生じるか、完全酸化で臭みが除かれるかも、酵母と同じ生き方をする大腸菌の働きによりました。そして、両者の分岐点にある物質は解糖系の末端にあるピルビン酸という有機酸でした。大気中に酸素分子が存在するようになってから進化した全ての動植物はピルビン酸を酸素呼吸の道筋へと導くことで、多量のATPを生産できるようになり、進化の速度が高まり、多様な生き物達が生きる地球が誕生したのです(第10回、4図)。


太陽エネルギーを蓄えた有機物を用いて水から電子を取り出そう

生きるために欠かせない働きをするミトコンドリア

単細胞の微生物であろうと、多細胞からなる高等動植物の細胞であろうと、周囲に酸素分子が存在すると、原形質中での解糖系でグルコースを低分子化してピルビン酸に辿り着いたものが、ミトコンドリアの内部に取り込まれて行くことになります。細胞内のミトコンドリアの個数も、その細胞の機能で違ってきますが少ないものでは1、2個からATPの需要が大きいものでは2,000個位に達します。また、第4回1図で細胞中にはミトコンドリアも存在することを示しましたが、その構造も違ってきます。酸素が充分に存在してATPの需要も高い場合には、内部にある外膜と内膜で包まれたひだ状構造の個数も増えてきます。このひだのような構造をクリステと呼び、内部の液状の部位をマトリックスと呼びますが、それぞれ異なる働きをしています(図5)。

生きるために欠かせない反応がマトリックスで行われている

ミトコンドリアの構造
先のピルビン酸は酸素があれば、ミトコンドリアの外膜・内膜を通ってマトリックスに入り込み脱炭酸反応(二酸化炭素を分離)と酸化還元反応が組み込まれた回路を経て、完全に分解されることになります。この回路を発見したクレブスの業績を称えてクレブス回路と言われたり、ピルビン酸が3個の炭素からなる有機酸であることからトリカルボン酸(TCA)回路、ピルビン酸がこの回路に取り込まれて最初に出来る物質が柑橘類の果実の代表的酢っぱみであるクエン酸であることからクエン酸回路とも呼ばれています。この回路の重要性から、どの教科書にも掲載されているので、各自で勉強して下さい。

クレブス回路で水から電子を取り出す
この回路が特別に重要なのは、この回路中の3個所で水分子を取り込む一方で、生き物によっては太陽エネルギーを蓄えて造っておいた有機物の殆ど全てを分解して電子を取り出し、NADを還元してNADHにすることができるからです。

@NADとはニコチンアミドアデニンジヌクレオチドと言われる細胞内に最も多量に含まれる補酵素1と言う物質で、NAD⇔NADHの酸化還元と連関して細胞内の各所で行われている各種の酸化還元反応に関わっています。

A他方、NADにATPから1個のリン酸を外して結合させますと,これまで度々登場したNADP、ニコチンアミドアデニンジヌクレオチドリン酸、補酵素IIと言われるものになり、NADP⇔ NADPHに還元されて、有機物質の生合成に不可欠な還元力の源でした。 
(※「⇔」は可逆反応を示しています。)

NADからNADHに変化するとき水から電子を取り出す
NADをNADHに還元するということは、太陽光が明反応で水分子を解離して電子を取り出す作業と同じ意味を含みます。ただ、直接的にATPを作らずに、一旦、クエン酸回路上で3個の水を付加しておいて、回路上の幾つかの有機酸の還元酵素と共役して水から電子を取り出すという重い役割を担っているのです。ところで、ピルビン酸がこの回路に入った途端に補酵素(CoA)と結び付いてアセチルーCoAという化合物になって、次の段階で水分子を付加しながらオキザロ酢酸と縮合してクエン酸というこの回路の出発有機酸を形成しますが、この反応段階だけは不可逆的な反応であることから、この回路中の他の酵素反応は全て可逆的反応なのですが、一旦この回路にピルビン酸が入り込んでからは回路全体としては不可逆的性格を有することになり、後戻りは許されず回路を稼動させるには何らかの仕事をさせざるを得ません(後述)。

水から電子を取り出すためにご飯を食べている
ここまでをまとめてみると、夜の植物の葉や土中の暗闇に伸びている根系も、私達動物の全ても、有機物を食べて、つまりご飯を食べて生きているのではないと言うことです。緑色植物は日中は太陽光を利用して水から電子を取り出して有機物として蓄え、夜になると昼に蓄えて置いた有機物から水を用いて電子を取り出して生きていたのです。皆さんが乾燥した米粒や非常食として役所が準備している乾パンを食べたところで生きて行けません。食事とは水から電子を取り出すための行為ですから、ご飯と同時に水分を摂らなければ食事をしたことにはなりません。違った言い方をすれば、NADに電子を渡してそれを還元してNADHにするために夜の植物の葉や茎も根系も、私達酸素呼吸をする動物達の全ても、有機物に形を変えた太陽エネルギーを食べていると言えるでしょう。クエン酸回路を1回転する間に3分子の水を解離する場がマトリックスであり、そこで酸素呼吸を始めるための準備をしますが、そこにこそ全ての生き物にとって、「水こそ命の源」である第二の理由があります。大気中に酸素があろうとも、水を摂ることが出来なければ高等植物も昆虫も鳥も私達哺乳動物も生きることは出来ないのです。その水を、地球温暖化のために飲めなくなった地域が地球上の各地で増えています。人間が住む場所を失っても流浪の旅に出れば良いという事ではなくなってしまいました。既存の多くの生き物、特に動くことの出来ない植物は砂漠化を前にして死を待つだけの地球になりつつあるのです。私達科学者は「生物多様性保全条約」を制定して、この地球の自然環境を保全するために立ち上がらざるを得なかったのです。次回は、どうして酸素がある時にだけ、ミトコンドリアのお世話にならねばないか話すことにしましょう。


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