森の世紀が始まりました (第5回)
── どうして水は命の源なの (2) ──

日本樹木種子研究所所長・東北大学名誉教授 江刺洋司

前回は地球上の生き物の全てが、太陽光に依存して生き、細胞を増殖させて、有機物を作り出すこと、緑色高等植物では葉緑素が太陽光を受け止め、水を分解して電子(e・H+)を取り出すが、例えば下等な紅色光合成細菌などではちょっと構造の違った色素で光を受け止めて硫化水素類から電子を取り出して、増殖するなど、この段階では水は全ての生命に共通なものでないことを学びました。ただ、光が、化学エネルギーATPとNADPHに代表される還元力(違った構造のものもあります)を作るということでは全ての生き物に共通の原理でした。これら二つの物質群を光が作ることが命の始まりなのです。そこで今回からはその都度中心課題を設けて、話を進めることにしますが、先ず最初はこれら命を支配する二つの物質は一体どんな物なのか理解することにしましょう。

ATPは動力源、NADPHは接着剤の役割を担っている

これらの物質がどんな構造をした分子であるかは、皆さんが大きくなってから勉強して調べて下さいね。ここでは、これからの話を前に進めるために、それらが生体内でどんな役割を演じているのかだけは理解して貰わないと、自然の中での命の仕組みを語ることが出来ませんので、それらの働きだけを簡単に説明したいと思います。エネルギーとは力ということですから、ATPは電車や自動車を動かしたり、あるいは物資を吸収したり、それを運搬したりする役割を演じていると考えてもらって結構です。動物のように動ける生き物ならば餌を探して動き回るのも運動エネルギーとしてのATPがあってのことです。それに対して、還元力とは生体が吸収したり運んで来た物質を結び付ける接着剤のような働きをする物資と理解して下さい。大工さんは自動車で運んで来た建材を彼らの脳内で働き出す知恵と各所の筋肉を動かして適切に加工しますが、それらを実際に組み立てるには釘や接着剤が必要になりますね。これらの働きをしているのが還元力ということになります。皆さんがこれから成長(体細胞を分裂させる)するのに欠かせないのがNADPHに代表される還元力を有する物質ということになります。

細胞の分化は酸素濃度の高まりへの適応

太古の地球上には酸素ガスは太陽の紫外線によって水が分解された量、現在の大気の酸素濃度の1万分の1しか含まれていませんでしたが、藍藻という植物が発生して太陽光を用いて水を分解して大気中に酸素を放出するようになってから、本格的な動植物の進化が始まったことは皆さんご存知のことでしょう。上記の硫化水素を電子供与体とする光合成細菌は、電子を取り出しても酸素を生むことはありませんから、光受容体の色素も葉緑体のような特殊な細胞内器官に置く必要はありませんので、細菌細胞膜の表層に並べておくだけで充分です。ところが酸素に触れるようになると、その酸化作用の妨害から身を守るために、生き物の最少単位である細胞内にも複雑な構造分化をせねばならなくなりました(前回の図1)。いわば生き物の進化をもたらした最大の要因が大気中での酸素濃度の高まりにあったのです。

葉緑体は大型水力発電所

つまり、太陽光が命の源としての電子を放出する場合に、硫化水素のように大気中の酸素に触れただけで自然に酸化されて電子を放出するする物質と、水のように紫外線という強烈な酸化力を働かせない限り、分解して電子を放出できないものとでは、電子を取り出すのに物凄い力の違いがありますね。現代の大気を通り貫けて来た光には紫外線はあまり含まれていませんので、水は洗面器に入れておいても水蒸気となって消えてしまうことがあっても、水素と酸素に分かれて消滅してしまうことはありません。ということは、さほどのエネルギーを加えなくとも硫化水素からは容易に電子が飛び出しますが、水から電子を取り出すとなれば余程の工夫がなければ、単に熱を加えたところで水蒸気になるだけです。逆に話すと、硫化水素からは容易に電子が飛び出すことは、これを電子供与体として用いる細菌は太陽光に曝された時には僅かのATPしか作れないのに対して、葉緑体のような特殊な構造をした細胞内器官でなければ、水から電子を取り出せないということは、それだけ充分に太陽エネルギーを活用して大量のATPを生産できることになります(図3)。また、豊富にATPを供給してもそれを活かすには相応の還元力が無ければ、ATPが余ってしまいますので、ATP生産量に見合った有機物生産のための還元力量をNADPHとして同時に生産することになります。硫化水素から電子を取り出している細菌では、ATPが余った時にだけ、その一部を還元力の生産に向けるだけですので、細菌は単に細胞分裂を続けて、増殖することしか出来ません。しかし、太陽光で水を分解する手段を獲得すようになると、太陽エネルギーをいっぺんに大量のATPとNADPHの形に変えることが出来ることになりますので、先の単細胞としてだけ生きる形から脱して、種々の多細胞からなる多様な生き物に進化を遂げることが出来ることになり、樹木のような大きな生き物も出現し得ることになります。水力発電所にたとえれば、僅かの高低差で生じる小さな発電所で数軒の電灯を灯すことしか出来なかったのが、硫化水素発電所です。それに対して、大きな高低差から莫大な電力を供給する水力発電所が、水から電子を取り出す葉緑体で、家庭の電灯だけでなく、電車を走らせたり、工場を稼動させる電力を供給できるような本格的な大型水力発電所ということになるでしょう(図3)。このような発電所では太陽は揚水発電所の役割をも果たすような,硫化水素発電所とは比べようもないほど大きな電力を供給出来ることになるのです。

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